2014年2月7日金曜日

ウラル住民の核被害

 ドキュメンタリー『不毛の地』は、ロシアのチェリャビンスクにあるマヤーク核施設コンビナートにおけるずさんな核廃棄物(液)管理によって、ウラル地方一帯が大規模な被爆をくりかえしていたことを告発しています。

 それは、旧ソ連時代の原子爆弾の開発から始まりました。1948年、放射線廃棄物を直接テチャ川へ投棄を開始。その核兵器開発施設はその後、マヤーク核コンビナートとなり、ロシア全土の原子力発電所や原子力潜水艦などの使用済み燃料の再処理を担うようになった今も、廃棄物(液)の投棄は続いているといいますから驚きです。

 ずさんな核管理は、さらに大きな被害をもたらします。1957年、キシュティムの核廃棄物貯蔵タンクが爆発。248の村が避難、50万人が被災者となり、ウラルの核惨事と呼ばれました。ところが、ソ連政府はその事故を極秘にし隠蔽します。さらに、事実を知ったアメリカや英国までもが自国の核政策のために秘密にしたことを、中国新聞社が次のように報じています。

 「≪隠されたウラルの核惨事≫  1957年、マヤーク核施設で起きたタンク爆発事故は、86年のチェルノブイリ原発事故が発生するまで、旧ソ連で最大の放射能汚染事故だった。ところが、ソ連ではすべてが秘密にされた。   核開発でソ連をリードする米国の中央情報局(CIA)は、59年にこの事故を知った。しかし、57年に英国ウィンズケール(現セラフィールド)で起きた軍事用原子炉の大事故や米国内の核工場での事故などもあり、「自国の核開発の足かせになっては」と、米政府も秘密を保った。
 「ウラルの核惨事」「キシュティムの事故」として世界に知られるようになったのは76年。英国に亡命したソ連の生物学者ジョレス・メドベージェフ博士が、科学雑誌に暴露したのがきっかけである。ソ連政府は89年、ペレストロイカが進む中で、ようやく正式に事故を認めた。
 事故では従業員や住民被害のほかに、マヤーク敷地内の除染作業などに従事した、全国各地から招集の兵士2万人以上も被曝した。 (中国新聞 21世紀核時代負の遺産)」

その後も、マヤークのずさんな核監理は続きます。核廃棄物のタンクへの貯蔵ができなくなった施設管理者たちは、コンビナート地区内にあるカラチャイ湖を廃棄物(液)の貯蔵庫とします。そして67年、ロシアを襲った大干ばつで干上がったカラチャイ湖は、湖底の汚染泥がむき出しとなり、折からの強風によって再びウラル地方一帯を汚染したのです。

 テチャ川流域にあるムスリュモワ村は、1948年から現在までの66年間、マヤーク核施設コンビナートに汚染され、住民たちは被曝し続けたことになります。

 作品は、国際的な批判があって、ムスリュモワ村の移転が開始されたと告げて、その移転先もまた汚染地域だといいます。NGOテチャのゴスマン・カビロフが憤懣やるかたなく「核実験の続き、人体実験ではないか。」と語っています。


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